4月7日(土)午前10時55分、中江美智子は宝塚第一病院の集中治療室で、静かに息を引き取られました。2000年10月に乳がんの手術を受けられ、2005年に再発。がん治療が始まりました。痛みと苦しみの中にあっても、中江姉は常に笑みを絶やされませんでした。それは、主に対する信仰から来るものでした。姉は、1989年2月に信仰に立たれて以来、内にいます主に信頼し、徹底的に従ってこられました。その信仰を、主はどれほど喜ばれたことでしょうか。
召される前日は、姉のいつもの診察の日でした。姉はいつものように洋服に着替え、“ウィ・ハブ・ジーザス”と言い残して、藤原姉の運転の車で第一病院に行かれ、受診されました。ところが、主治医の先生は病状の深刻さに気づき、その場で入院を告げられ、姉はICUに入れられました。翌朝早く、姉は一時的に心停止に陥られ、医師の速やかな対応で回復されたようでしたが、命は数時間しか残されていませんでした。
連絡を受けた教会の者たちは、次々と病院に詰めかけ、千恵子師は病床の傍らで祈り続け、教会員たちも病院の外で祈り続けました。しかし、神様のみこころは、姉を一切の肉体の苦痛から解き放つことでした。姉は、22日の誕生日を目前にして、50才の生涯を閉じられました。
その日に前夜式が、翌8日(日)午後に告別式が教会で行われました。新潟からご両親やご兄弟が、徳島から幸一兄のお母さんが来られました。また、生前、姉がよく祈り、誘っていた求道者の人たちや、教会学校の保護者の人たちがたくさん集まられました。姉は日ごろから、自分の葬儀は伝道集会にしてほしいと言っておられましたが、その通りになりました。新潟のご両親は、初めはただ悲しみにくれておられましたが、葬儀が終わって翌日、ご挨拶に来られたとき、“美智子は天国に行ったのだから、行く先については何も心配していない”“こんな心のこもったお葬式は初めてだ”と話しておられ、またお姉さんも“美智子の死を通して、教会が近くなった”と語っておられました。
このようにして信仰の勇士は召されました。まさに栄光に移されたという感がします。葬儀で、教会員たちが口々に証しされたように、姉の信仰を受け継ぎ、十字架と復活の主、勝利の主を見上げて、前に向かって進んで行きたいと願います。(岩間記)
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教会の集会を愛され、マリヤのごとく御言葉を慕い求めておられた姉妹は、入院すると礼拝に出られないからとできる限り自宅で療養されていました。教会に来られた最後は召天される3日前の祈祷会でした。苦しい息の中、母子室の窓から顔をのぞかせ、私たちの賛美を喜んで聞いていてくださいました。早天祈祷会も大切にされていました。ノートは3月28日で終わっています。それまでどれほどの篤い信仰の祈りがささげられたことでしょうか!姉妹は今年になり入院を余儀なくされ2回の礼拝を休まれました。けれども痛みの中にあっても、礼拝の様子が目に浮かび、このあたりにはあの方が、あのあたりにはあの方が・・と一人一人の顔が思い出されてきて仕方なかったそうです。また、その日がとても寒い朝だったので、あの方は休まずに来られただろうかと気にかかって仕方なかったそうです。姉妹は心から教会員一人一人を愛されて、祈ってくださっていました。自分のことは後にまわして、いつも周りの方のことを思いやってくださる方でした。姉妹は本当に主を愛しておられましたが、また神様に愛された方でした。「信じていれば大丈夫!」と口癖のように言っておられた姉妹の姿を忘れることはありません。信仰は勝利!(Y.K)
同じマンションに引越ししてきた日にガンの再発が分かったのですが、美智子姉は開口一番「教会に近くなってよかったね。私も嬉しいわ」と言われました。私が再発のことを知って暗い顔をしていると「大丈夫よ!イエス様を信じていこう!」と明るい顔で朗らかに言われました。主人にそのことを話したら「どちらがガン患者かわからない」と言っていました。それからは教会へは車で一緒に行くようになりました。その中で一番教えられたことは、御言葉に対する姿勢です。御言葉を聞くこと、祈ることを大変愛されて、「何としても行く。行きたいのよ。」と苦しい時ほど繰り返し言っておられました。私は自分だったらこんな苦しいときにどう言うだろうかと思いました。そして私も美智子姉の信仰にならいたいと思いました。主を愛して御言葉を聞いて祈ることを何よりも愛して求めていきたいと思いました。「美智子さんてすごい信仰ですね」と言うと「あのね、昔の私はこうじゃなかったのよ。心配性でね。でも、イエス様の救いをいただいて、イエス様が心の内に住んでくださってから、私は本当に変わったのよ。」とよく証しをしてくださいました。そしていつも玄関先で「祈ってるからね」と言って家へ入って行かれました。(F.S)
信仰は勝利といつも賛美していた美智子さん。最後までいつも通りの生活をして4月1日(日)の礼拝に出、4日(水)の祈祷会に出て、御言葉を愛して聞き続けて、本当にいさぎよく天国に凱旋していきましたね。イエス様を誰より愛し、最後の一息まで信じ、従った美智子さんを主はどれ程喜んで迎えてくださっているでしょう。ガンの痛みの中にあっても他の人を思いやって声をかけたり祈ったりしていた美智子さん、短い生涯でしたがあなたをこのように生かしてくださった主を心からほめたたえます。神様を信じて従う生涯がどれ程祝福に満ち満ちているかを教えられ、私もそこに進んで行きます。(M.K)
イースター礼拝直後の告別式が終わり、それから美智子姉を思い出すたびに、目が高く上向いて、心が晴れやかになります。美智子姉は私に御言葉の大切さをご自分の信仰の姿勢を通して教えてくださいました。美智子姉が私に強く願っていたものの中の一つに、「御言葉をいつも聞いて行って!」というものがありました。今でも美智子姉を思うたびに、いろんなことを思い出して感謝です。神様が私に与えて下さった信仰の先輩です。その姿は聖書の御言葉と一致しています。(E.Y)
「我らにイエスあり」美智子先生はこの勝利の確信をしっかりと握って、天へ召されました。赤ん坊の頃からお世話になり、常に祈り励まし続けてもらった「母」であり、信仰の最良の先輩であったと思います。美智子先生の愛唱歌を賛美していると、何よりも誰よりもイエス様のことを愛しておられたんだという事が切に迫ってきて、そして今はそのイエス様のみ側に立たれているんだなと、天国の希望に感謝しました。悲しみの中にも天国で再会する約束と希望を握っていけるとはなんと言う幸いでしょうか。信仰の行程を走り抜き、主のもとにたどり着かれた美智子先生のその愛と信仰をしっかりと受け止め、引き継ぐ者でありたいと願います。(S.K)
神様が備えられた“時”を思うと、人知では図り難いと・・・新潟のご両親は、あと4日遅かったらと思うと、一番良い“時”だったと、農業・豆のことなどを話してくださいました。新潟に来てくださいと言ってくださったときはうれしかった。「美智子は以前から、クリスチャンは死んだら天国に凱旋するんだと言っていました。」とお母さんは話してくださいました。「私たちも天国に行くんですよ。」と言いました。イエス様のこと救いのこと、お伝えしたいと思いました。(T.I)
数ヶ月前のこと、姉妹と3階の窓から外の景色を眺めながら姉妹が、「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは天と地を造られた主から来る。」と詩篇121篇のみ言葉をおっしゃり、共々にみ言葉をかみしめ、恵まれたことを思い出します。新潟出身の姉妹は冬空を見て、「あれは雪雲、もう時期ここにも雪が降るわ。」とよくおっしゃったものです。暖冬だったこの冬には、「雪解け水が田にはとても大切なの。」とも。私の目にも新潟の田園風景が目に浮かぶようでした。けれども姉妹が待ちこがれていたのは、もっとよい天の故郷。どんな痛みや苦しみの中でも、目は天に向いていました。体が弱っても、イエス様だけを信じ、頼り、ゆだねる信仰が弱ることは決してありませんでした。(S.M)
私が美智子さんに最後にお会いしたのは、召天される前日宝塚第一病院に入院された時でした。6階病棟で、息をすることも苦しい美智子さんが幸一さんの押す車いすに乗られ、トイレから病室に戻ってこられました。そして、私を見つけて軽く会釈し病室に入って行かれました。これが家族以外の者が意識のはっきりしている美智子さんと出会った最後となりました。とても神様の不思議な導き=必然を思います。どれほど美智子さんに愛され、祈られていたか・・・「書きしるせ。『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。』」(黙14:13) ハレルヤ! (Y.K)
母は、イエス様と出会ったことで最高の人生を歩んだと思います。小さい頃は心配性で、ちょっとしたことですぐに医者に診てもらうという臆病者だと言っていました。ですが、救われて信仰をいただいてからは全く違いました。ガンという病気になっても落ち込まず、ただ喜んでイエス様に従う。体はしんどくても絶対に礼拝をおろそかにしない。いつも大好きな教会にいく。そのような意気揚々とした姿には、子どもながらいつも感心させられていました。イエス様に救われると、こんなにも違う人生を送れることができる!とノンクリスチャンの方々に知ってもらいたいです。今は、とても悲しくて涙が止まりません。しかし!!!母がイエス様からいただいた信仰と意思を受け継いで、私も最後まで神様の栄光のために働きたいです。(T.N)