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2013.6.2 礼拝メッセージ: 「よくなりたいか」  ヨハネ5:1−9

イエスと出会って虚しく帰った人はいない。悩める人は平安を、悲しむ人は喜びを、病める人は癒しをイエスからいただいた。

 

ここに登場する人物も癒しを得た。彼は極めて悲惨な状態にあった。場所はエルサレムの羊の門の傍ら、ベテスダの池のほとりだ。ベテスダ(憐みの家)とは素晴らしい名前だが、現実はそこには地獄のような光景が展開していた。

 

池を囲む五つの回廊に病める人々、身体の不自由な人々が伏せっていた。彼らは水が動くのを待っていたのだ。主の使いがときどき池に降りて来て水をかき回したとき(池は間欠泉で、水が湧き出たとき、主の使いが水をかき回したと見えたのだろう)、真っ先に入った者が癒されるとされていた。一種の迷信だが、彼らには迷信にでもすがるほか生き甲斐がなかったのだ。友人からも家族からも見放されており、心の拠り所が皆無の彼らには、せめて迷信でもと、一瞬の機会にかけていたのだ。

 

何と空しい日々か。しかも、そこは人間の自己中心性が露骨に出る場と化していた。水が動いたとき、彼らは我先に池に突進した(7節)。他人のことなど考えておれない。人を踏みつけてでも一番に水に入ろうとした。身体の不自由な者はいつも後回しだった。みな社会の弱者だが、その中でも少しでも強い者が生き残るという、まるで地獄だった。

 

ユダヤ教の指導者、町の者、家族ですら、誰も近づきたがらないそういう所に、イエスは足を踏み入れ給うた。

 

「見、…知って、…言われた」(6節)という、38年間患う人に対するイエスの憐みにあふれた行動に注目しよう。

 

@イエスは見給う御方だ。彼がイエスに目を留めたのではない。主のほうから見られた。主は我らを見いだし給うお方だ。我らが罪の泥沼の中に沈むとき、主は見いだし給う。

 

Aイエスは知り給う御方だ。彼が訴えたのではない。その前に主が知られた。主は、彼がどれほど苦しんできたかを知られた。主は我らを知り給う。我らの悲しみ、悩み、憂い、涙をことごとく知り給う(詩139:1,2,4)。

 

Bイエスは語り給う御方だ。彼が叫んだのではない。主のほうから声をかけ給うた。主は我らに聖書の言葉をもって語りかけ給う。聖書は神からのメッセージだ。その時々に、み言葉がどれほど励み、慰めになるかわからない。

 

イエスは彼に「よくなりたいか」と問われた。彼は、誰も助けてくれない、人が先に入ってしまうと答えた。長年治らなかった理由を述べたのだ。人が悪い、社会が悪い…と原因を自分の外に見出そうとしたのだ。

 

彼は“はい、よくなりたいです”と答えるべきだった。長年の苦痛の中で、おそらく彼は人間不信に陥っていた。自分も他人も信じられない、開き直った生き方になっていたのだ。

 

イエスの問いは、彼のうちに激しい求めを起こさせようとした。主は彼に「起きて…歩きなさい」(8節)と言われた。癒すのは天使でも水でもない。人が助けてくれるからでもない。“私が癒す”と言われるのだ。彼はイエスヘを信じた。彼の内に信仰が呼び起こされた。彼は直ちに癒された。主を信じたからだ。

 

救われるために必要なものは、求めることと信じることだ。求めるべきものは罪からの救いだ。そして、イエスの十字架を信じる信仰だ。「よくなりたいか」と今も主は我らに問い給う。はっきりと答えて、主から救いをいただこう。主は我らを救う唯一の救い主だ(使徒4:12)。

 

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