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2013.12.22 礼拝メッセージ: 「現された最高の愛」 Tヨハネ4:7−11

 本書によく出てくる「光」、「いのち」、「愛」という言葉は、いずれも我らの救いに直接関わるものだ。


1.光
 神は光なるお方だ(1:5)。義なる方、罪を裁かねばならない方だ。我らは義なる神の前に一人残らず罪人であり、確実に裁かれ、滅ぼされるべき者だ。そういう我らの所に、神の御子キリストが来られた。


 このお方によって、我らは光の中へと導かれる(ヨハ1:9、8:12)。み言葉の光に従って罪がわかり、悔い改め、キリストの十字架を信じて罪が赦される(1:9、1:7)。そして、我らも光の中を歩む者になる。


2.いのち
 天地創造の昔、神はご自身にかたどって人を造られた(創1:27)。つまり、神との自由な交わりの中に生きる者として創造されたのだ。ところが人は神のみ言葉に背き、罪を犯した。神のかたちは壊され、神と交わりを持てない者になった。これが罪の原型だ。神のかたちが失われた我らは、真のいのちを持たない者になった(エペ2:1)。


 死んだ人の特徴は、応えないこと、冷たいこと、硬いことであるように、罪人は神の語りかけに応えず、愛がなく冷淡で、心が頑なだ。我らの姿だ。そういう我らに神はいのちを与えてくださる。神がキリストの贖いによって我らの魂を生き返らせてくださるのだ。それが「愛」だ。


3.愛
 人はみな愛されたいと願う。しかし、真実の愛が他のものにすり替えられ、ごまかされ、軽んじられている。真の愛とは、神の愛だ(8節)。日本人の神観念には強い恐怖感があるが、聖書の神は愛の神だ。我ら一人一人を愛してくださる神だ。


 その愛の具現がキリストだ(9節)。キリストは2000年前に神から遣わされて、ユダヤに生まれられた神の子だった。それは、我らを生かすためだった。我らは、罪のために、魂が死に至る病を患う者、罪の奴隷だった。そんな我らを生かすために、神は独り子を送られた。


 神は、なだめの供え物(10節)、すなわち神に献げられる犠牲、贖いの供え物として御子を死なせることによって、我らを生かしてくださる。神は我らを生かすために、御子を十字架につけられたのだ。我らが神を愛したのではなく、神のほうから我らを愛してくださり、最愛の独り子を十字架につけてくださったのだ(ヨハ3:16)。


 神は犠牲を払われた。真実の愛は犠牲を伴う。神は我らを生かすため、救うために犠牲を払われた。そこにはどれほどの痛みがあったことか。ここにこそ真の愛がある。ほかでは見いだせない真実の愛、無条件の愛だ。この愛によって、我らは罪と滅びから救われる。罪とは神からの離反であり、そこから生じる自己中心だ。神はそんな我らを救うために、御子を犠牲にしてまで愛してくださった。


 我らがなすべきことは、まず自分の罪を認めることだ。み言葉の光に照らされて罪を認め、神の前に罪を悔い改め、十字架を私の罪のためだったと信じるのだ。そこで与えられるのは赦罪と義認だ。全ての罪が赦され、神に受け入れられる。そのとき、神の愛が全うされる(12節)。これがキリストの救いだ。この愛によって、神が我らを愛されたように他を愛することが出来る。


 真の幸せは、愛されることより愛することだ。そこには犠牲を払わねばならないこともある。神の愛に生かされたとき、相手のために喜んで犠牲を払うことが出来る。ここにこそ本当の愛がある。キリストの十字架に現された真実の愛を知ったとき、あなたの生き方は変わる。

 

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