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2014.1.1 元旦礼拝メッセージ: 「時は満てり」  マルコ1:14−20

 主イエスは公生涯に出る前、ヨルダン川で受洗され(9-11節)、荒野で試みを受けられて(12,13節)、いよいよ3年半の公生涯に立ち上がられた。


 ヨハネが捕らえられた後、主はガリラヤで宣教を開始された(14節)。主は「時が満ちて」(15節)と言われた。主の宣教の時は、神が備えられた時だった。主はいつも神の時に従われた。


 「神の国」とは場所ではなく、神の支配を意味する。主の来臨は神の支配の到来だった。それは我ら一人一人のことで、神が我らの魂を支配する恵みが近づいたのだ。神に支配されないなら、我らは罪の支配下にあり罪の奴隷だ。そこから解放して神の支配下に移すのが主の救いだ。


 だから「悔い改めよ」と言われた。救いはまず悔い改めからだ。認罪と悔い改めが救いの基礎だ。ヨハネは悔い改めのパブテスマを施した。イエスは「悔い改めて福音を信ぜよ」と言われた。悔い改め、福音を信じて救われるのだ。


 福音とは、キリストの十字架と復活の福音だ。捨てられるはずのない罪なき神の子が、神から捨てられ給うた。それによって、捨てられて当然の我らが捨てられず、救われる。また神の子キリストは、死の中からよみがえられた。我らを死の恐れから解放するため、我らに永遠の命を与え、天国の希望に輝かせるためだ。


 十字架と復活の福音は、罪の赦しと義認を与える。それだけではない。福音は、聖潔の恵みまで至らせる。救われてもまだ罪を犯させる古き人を十字架につけるなら、聖霊によってキリストが内住される。キリストの十字架と復活に一つにされる。主が十字架に死なれたように、わが内の古き人も十字架に死に、主がよみがえられたように、わが内に復活の主が生き給う。これが信仰によっていただく恵みだ。


 ヨハネが捕らえられた後、イエスは「時が満ちて」と言われた。ここには隠された意味がある。律法時代の最後の預言者ヨハネの逮捕が、時が満ちたときだった。律法の行いによって救われるとされた時代の終焉(しゅうえん)が、福音を信じて救われる時代の到来だった。行いによらず、信仰によって救われるのだ。行いによらず、信仰によって潔められるのだ。行いによるなら恩恵に与るのはごく一部だが、信仰によるから、誰でも恵みに与ることができる。だから福音なのだ。


 主は福音宣教のために、働き人を必要とされた。そこで最初の弟子たちを召された(16節〜)。シモンとアンデレから「我に従いきたれ…」とお声をかけられた。彼らはガリラヤ湖の漁師で、無学のただ人だ。しかし主は彼らを選び、人を漁(すなど)る者、人をキリストに導く者に召された。人を漁るためには、幅広い知識と教養、深い洞察力、指導力が必要だ。しかし、それらが彼らに備わっていたから、お声をかけられたのではない。主が彼らをそのように成し給う。ただ、すぐに従う心があったから、彼らを召されたのだ。


 主は「我に従え」と言われた。ただ従うかどうかが問題だった。しかも「すぐに」従うかだ。不問即座の服従が求められた。彼らは網も舟も捨てた。生活の拠を主に献げたのだ。自分が依って立っていたところを主に献げるかどうかだ。


 主は我らにもお声をかけたいと願い給う。直ちに従いたい。我らは弱い者、愚かな者、鈍い者だが、主は無きに等しい者を敢えて選び給う。そのための十字架だ。


 主にすぐに従う者を、主は用いようとされる。「神の国は近づいた」とは、緊迫感を帯びた言葉だ。我らの救いの日が接近しているのだ。救いと聖潔を真剣に求めよう。さらに、主の日を前にして、福音宣教の業に熱心な者になろう。滅びゆく魂のために、重荷をもって主のもとから遣わされたい。

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