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2014.3.16 礼拝メッセージ: 「生ける神に仕える者」 ヘブル9:11−28

本書には、古い契約と新しい契約の違いが述べられている。前者には、礼拝者の良心を全うできないという限界があった(9節)。それは、キリストの十字架により新しい契約が立てられる時までの準備のものだった。

 

しかし、我らに与えられようとする完全な救いのための大祭司が現れた(11節)。古い幕屋になくてならぬものは、犠牲の血だったが(12,13)、不完全だった。繰り返しささげられたが、全うできなかった。ところがキリストは、ご自分の血によって、ただ一度まことの聖所に入られた(12節)。

 

1.キリストの血は、私たちの罪を赦す(22節)

 

血が流されて、人と物が贖われた。旧約では度々動物の血が流されたが、今や一度限りキリストの血が流された。旧約ではその贖いは不完全だったが、今やキリストによって完全な贖いが成し遂げられた。

 

罪の赦しが土台だ。これがはっきりしているクリスチャンは幸いだ。罪の赦しは、お情けによってではなく、法的な手続きが取られて与えられる(1ヨハ1:9)。義なる神は、罪を罰せずにはおかれない。しかし同時に愛なる神は、我らが滅びるのを見るに忍びない。そこで神は御子を十字架につけられた。下されるべき罰は、我らの上にではなく、御子の上に下された。神の義は貫かれ、同時に神の愛も全うされた。この正当な贖いのゆえに、我らの赦罪と義認は動かされない。

 

2.キリストの血は我らの汚れを潔める(14節)

 

「死んだ行い」とは、律法の儀式のことだが、我らにとっては古き人のことだ。救われてもなお罪を犯し、神に逆らい、御心を傷つけ続けるという、我らに根深く巣くう内在の罪(ロマ7:17,20)がある。そのような自分の内側の汚れは、きっちり始末をつけられなければならない。始末できるところ、そこが十字架だ(ガラ2:20)。

 

信仰によって十字架で古い自分に死ぬという体験を経た者が、信仰によって内にキリストをいただいて、神に対して生きる者になる(ロマ6:11)。恵みによって、生ける神に仕える者になる。喜びをもって主に従う者、礼拝する者、奉仕する者、執り成す者になるのだ。そして、神に喜ばれ、重んじられ、信頼される者になる(ヨハ12:26)。

 

自分の努力でそういう者になるのではない。キリストの血がそうさせるのだ。御子の血のみが永遠の贖いを全うさせる。なぜなら、傷なく染(しみ)なき小羊の如きキリストの尊い血だからだ。

 

血の力を信じよう、血潮を賛美しよう、血潮により頼もう。キリストの血への信頼は、罪とこの世とサタンに勝利させる。それが福音だ。荒野でサタンの誘惑に勝利され(マタ4:10)、十字架と復活で世に勝たれたイエス(ヨハ16:31)が、我らの前に進まれる。我らもイエスの血によって、罪とこの世とサタンに勝ち、生ける神にのみ仕える者にならせていただこう。

 

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