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2014.3.23 礼拝メッセージ: 「主に仕えるというのなら」 ヨハネ12:20−36

受難週の火曜日、十字架を3日後に控えたときの記事だ。イエスに対するパリサイ人らの敵意は深まり、策謀が本格的にめぐらされるという、緊張感漂うとき、過越の祭で礼拝するために上京したギリシヤ人らがイエスを訪問した。異邦人の彼らはイエスを王と認めて謁見を求めたのだ。主が「人の子が栄光を受けるその時がきました」(23節)と言われたのは、異邦人の訪問を受けて、十字架の時の接近を痛感されたからだ。

 

そういう中で「一粒の麦、地に落ちて死なずば…」(24節文)と語られた。麦が実を結ぶためには、種の麦が地に落ちなければならない。落ちただけでは駄目だ。死ななければならない。死ぬとは、麦たることをやめ、芽を出すための供給源に徹することだ。そうするなら根を張り、芽を出し、穂を付け、豊かな結実を見る。

 

イエスは、ご自分の死をさして一粒の麦と言われた。主は地に落ちて、十字架の死を遂げ給うた。主の死は十字架の死でなければならなかった(32節、ヘブ9:22)。

 

我らは、主の十字架によって、過去に犯した罪とその結果たる滅びからの救いをいただくことができる。悔い改めと信仰によって、誰にでも与えられる恵みだ。救われたら、主を愛し主に仕えたいと願う。我を愛し、救い給うた主に仕えたいと願う。

 

主を愛し主に仕えるには、主に従わなければならない(26節)。イエスがそうされた。主は神の栄光を捨てて人になられた。ゲッセマネで杯が除かれることを願いつつも、父の御旨に従われた。キリストたることを固守せず、己れを捨てて御心に屈服し、十字架の死に至るまで徹底して従われた。

 

我らも、主に仕えたいなら、神の御心に従順に従わなければならない。これは、自分に死ななければできないことだ。一粒の麦とは、イエスだけではなく我ら自身のことだ。主は我らのために十字架に死なれた。同時に、我らのわがまま、強情な自我をも共に十字架につけ給うた。「自分のいのちを愛する者は…」(25節)は探られる。誰でも自分の命をいとおしく思う。これが曲者(くせもの)だ。自分をかばい、自分を可愛そうに思う。結局全ては自分のためだ。自己愛の塊だ。そういう自己の真相に気づき、絶望し、そこから十字架を仰ぐのだ。「キリスト・イエスにつく者は…」(ガラ5:24)と信仰によって決算した魂に、キリス卜が内住し給う。そうなって、初めて真に主に仕えることができる。

 

主のように神に仕えたい。主のようにとは、主の外面を真似るのではない。主がいかに一粒の麦として己に死に、御心に従われたかに倣うのだ。主のように…、何と高い標準か。しかし主の約束だ。主が為し給う。恵みにより、信仰によって主に仕える者となりたい。

 

イエスは、受難の向こうに栄光を見ておられた。主は十字架に死に、三日目に復活し、昇天し、神の右の座につき、栄光を受けられた。「栄光を受ける時」とは、この栄光を見ておられたのだ。己れの死を通しての栄光、御心に従って父から与えられる栄光だ。

 

父から報いていただき信任していただくこと(26節)以上の栄光はない。我らも一粒の麦となり、地に落ちて死に、豊かに実を結ぶ者になりたい。そして栄光を見る者になりたい。

 

主は、もうしばらくの間、光は一緒にあると(35節)、また光のある間に光を信ぜよと(36節)言われた。厳粛な言葉だ。いつまでも光があるわけではない。光のある間に恵みをいただきたい。闇は追ってくる。追いつかれないようにしたい。

 

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