聞き手;今回は、当教会の牧師、岩間洋さんに登場していただきました。岩間先生、どれくらい牧師として働いておられますか。
岩間師;ちょうど23年になります。
聞き手;そうですか。失礼ながら23年前は、まだお若かったんでしょうね。
岩間師;そうですね。家内も私も30才を出たばかりで、はりきっていましたね。それだけに失敗も多かったですが…。
聞き手;いつか失敗談や苦労話も聞かせてください。みんなそんな話を聞きたいと思っていいるんですよ。
岩間師;わかりました。また機会がありましたら…。
聞き手;では、お証しをお願いします。
こんな愚かな私をも
岩間 洋
私は、両親とも小学校の教師という家庭に生まれ、厳しくしつけられて育ちました。小、中、高と地元の学校で学び、勉強はそれほどできたわけではありませんでしたが、いわゆる「まじめ人間」で過ごしました。
私の家庭は、無宗教の家で、仏壇もなく、小さな神棚がありましたが形だけのものでした。したがって、宗教心というものはまったく培われないまま育ちました。しかし、高校生のころ、吉川英治の小説「親鸞」を読んでとても感動し、将来は出家したい、などと思ったことが、宗教との最初の出会いと言うことが出来ます。
京都のキリスト教系の大学に入り、初めて親元を離れました。その時、母が聖書をくれました。母はクリスチャンではありませんでしたが、若い頃あるクリスチャンの友人からもらった聖書で、読みもせずに押し入れにしまい込んでいたものを、キリスト教系の大学に入った私に横流しにしたわけです。
私は、外国文学を学ぶ上では必要な教養だという気持ちで、その聖書を読み始めました。新約聖書のマタイの福音書から読み始めたのですが、第1章は「イエス・キリストの系図」が記されています。なじみのないカタカナばかりの名前が列挙されていて、何の面白みもありません。すぐにいやになって、聖書を閉じてしまいました。けれども、しばらくすると、やはり気になって、聖書に手が伸びます。改めて読み始めます。しかし、どうしても系図のところで引っかかり、聖書を投げ出してしまう。しばらくは、この繰り返しでした。
しかし、あるとき、思い切って聖書を読み進めていきました。すると、一つの御言葉に目がとまったのです。それは、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」というマタイの福音書5章3節の御言葉でした。教師の家庭で育った私は、ことあるごとに、“心の豊かな人になりなさい”と教えられました。ですから、この聖書の御言葉は、私にはとても不思議に思えました。
けれども、反発を感じるということはなく、むしろ、新鮮で、意味深く思えました。正しい意味はわからないながらも、何か真理があるように思えたのです。それからというものは、貪るように聖書を読んでいきました。そして、まだ教会に行っていませんでしたが、聖書にこそ真理があると思うようになりました。
大学1年生の冬休み、郷里に帰省中に、教会のクリスマス集会に誘われました。これもやはり、クリスチャンの方が母を誘ってくださったのですが、興味がない母は、聖書に心を引かれ始めている息子の私に“行ってみたら”と勧めたのです。
私は、妹と一緒に、生まれて初めてキリスト教会の門をくぐりました。語られたメッセージは、何一つ覚えていませんが、私を、まるで以前からの友だちであるかのように迎えてくださった教会の方々の暖かさに捕らえらました。そして、これからも教会に続けて行こうと思い、電話帳で下宿に一番近い教会を探し、京都市郊外の小さな教会に導かれました。
その教会は、10人足らずで礼拝が守られている小さな教会で、珍しく大学生の求道者が来たというので、歓迎されました。初めは、行ったり行かなかったりのいい加減な礼拝出席でしたが、牧師先生から語られるメッセージに捉えられ、次第に熱心に求めていくようになりました。そして、2年ほどたって、自分から洗礼を受けたいと申し出、イースターの礼拝で受洗しました。1973年4月のことでした。
こうして私はクリスチャンになりましたが、救いの確信があったわけではありません。それどころか、自分の罪もよくわからず、したがって十字架の意味も十分にわからないまま、ただ憧れで洗礼を受けたようなところがありました。当然、いい加減なクリスチャン生活しか送れませんでした。
しかし、そんな私をも、神様は憐れんでくださいました。当時、私は体育会系のあるクラブに所属していましたが、マネージャーという立場を利用して、部員から集めた部費を私用に使い込んでいました。合宿の下見に一人で行く時、交通費だけではなく、昼食代やジュース代まで部費から支出し、誰にも分からないように帳簿を操作して、何食わぬ顔をしていました。みんなのために苦労しているのだから、これくらいの見返りはあって当然だ、と自分勝手な理由を付けて、正当化していたのです。
ところが、ある日、神様は「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」というヨハネの福音書8章34節の御言葉をもって、私の心の内を照らし、神様に対して罪を犯していたことを示してくださいました。私は、それまで、まじめ人間と言われ、自分でもそう思いこんでいました。ところが、そうではなかったのです。表面はまじめそうで、いい人間ぶっていましたが、一皮むけば、自己中心の醜い姿をしていたのです。
私は、牧師先生のところに行って、今まで犯してきた罪を一つ残らず悔い改め、イエス様の十字架を仰ぎました。その時、初めて、イエス様はこの私の罪のために十字架にかかって死んでくださったのだ、ということがわかりました。そして、罪が赦されたという確信が与えられ、今まで味わったことのない平安をいただきました。受洗して1年近くたっていました。あのときの感動は、今も忘れることがありません。
その後、思想運動に走って信仰を捨てようかというところまで行くなど、紆余曲折はありましたが、こんな愚かな私をも真実な神様は導いてくださり、牧師として召してくださり、こうして神様に仕え、人々にイエス様の救いを宣べ伝える務めに当たらせてくださっています。神様に心から感謝します。