人の一生は、重荷を負って遠い道を行くようなものです。私たちはどんな重荷を負っているでしょうか。
1.不安という重荷です。私たちは、将来について、仕事について、何となく心配だとよく感じます。いろいろな事で無用の心配をしがちです。なぜ不安になるのでしょうか。安心して任せられる御方を知らないからです。
科学は進歩し、人間の知識は豊富になりましたが、神については何も知りません。ここに不安と恐れ、人生の悩みの原因があります。神を知らなければ、人生は不可解です。神は唯一のお方、天地創造の神です。この唯一まことの神を知り、信じ、神に委ねるとき、平安が与えられます。
イエス様は「休ませてあげます」と言われました。母に抱かれた赤ん坊が母に任せ切っているように、私たちも真の神に任せれば、少々のことでは動じません。足を地に着けた歩みができます。
2.罪という重荷です。罪の問題が解決しなければ、人生は決まりが着きません。こよなく愛し、苦労して育てたわが子が反逆したら、母の悲しみはどれほどでしょうか。神はご自身のかたちに私たちを創造されました。しかし、私たちは罪を犯して神を見失いました。私たちは神を無視した生活を続け、しかも、それが正常だと思っていました。ここに人間の罪の問題があります。
私たちは神の前には皆罪人です。表面は善人でも、ひと皮むけば、醜いエゴの塊です。「義人はいない、ひとりもいない。」(ローマ3:10)、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)とあるとおりです。人への憎しみ、妬み、傲慢、自己中心…。私たちの心はこれらで渦巻いています。
「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)とあります。人間は、罪を犯しましたから、死ななければなりません。この死は、肉体の死だけではなく、魂の死、滅びです。私たちは、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているのです(ヘブル9:27)。
私たちは救われなければなりません。私たちが願う以上に、神はすべての者の救いを願っておられます(1テモテ2:5)。そのために御子を世に送られました。キリストは罪なき神の子でしたのに、十字架に付けられました。それは、私たちの身代わりの死でした。
罪のために滅びゆく者、神から捨てられるべき者だった私たちに代わって、キリストが十字架にかかられました。神の裁きを肩代わりされたのです。捨てられるはずのない神の子キリストは、私たちに代わって神からも捨てられてくださいました。私たちが捨てられないためです。
罪なき神の子キリストだけが、罪と滅びに定められた私たちを救うことができます。この十字架のもとに行くなら、私たちのすべての罪は赦されます。罪の重荷から解放されるのです。
キリストは、「すべて」と、私たち全員を招いておられます。2000年前の話、遠い外国の話ではなく、今生きている私たちすべてへの招きです。人生の重荷に苦しむ人、人に話せぬ悩みを持つ人、罪の呵責にあえぐ人、人間関係に疲れた人、自己嫌悪に陥った人を、主は分け隔てなく受け入れてくださいます。
キリストによって罪が赦されたとき、本当の平安が与えられます。もう裁かれません、もう死はこわくありません。いつでも神の前に立てるからです。あなたも、重荷から解放された新しい人生を歩み出しませんか。神のみ言葉は真実です。み言葉の約束を信じ、キリストのもとに重荷を下ろしましょう。
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