イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて後、メシヤ待望の機運が高まり、人々はローマの圧政からの解放を願うようになった。そこヘイエスが降誕された。しかし準備が必要だった。その準備のために、バプテスマのヨハネが神から遣わされた。
イエス誕生の半年前に誕生したヨハネは、主の道備えをするという特別な使命を負っていた。彼の使命は、人々に悔い改めのバプテスマを施すこととメシヤを証しすることだった。そんな彼のもとに、エルサレムから祭司、レビ人らが、公開質問状を持って派遣された(19節)。彼らもメシヤを待望していた。公然とバプテスマを施しているヨハネを、メシヤかと彼らは思った。そこでヨハネが証しする。
彼はまず、自分について、@イザヤの預言した荒野の声(23節、イザ40:3)、A水でパブテスマを授ける者(26節)、B後から来る人の靴ひもを解く値うちもない者(27節)、と証しした。次に、イエスについて、@一人立たれる知らない方(26節)、A世の罪を取り除く神の小羊(29節)、B私よりも先におられた方(30節)、C御霊によってバプテスマを授ける方(33節)、と証しした。
イエスこそ世の罪を取り除く神の小羊だ。「神の小羊」と聞いて人々は何を連想したか。
(1)贖いの小羊。祭司は律法によって犠牲の小羊を献げて贖いの儀式を行った。儀式は毎年繰り返されたが、罪は決して解決されなかった。罪のために弱くなった人間に、律法は無力となり、動物の血は無効となった。
イエスは、律法で成し得なかった罪の贖いを、ご自身の血で完成された(使徒13:38,39)。それは、自ら律法の下で裁かれ、十字架に掛けられるという方法によるものだった。主が死なれたから、私たちは死ななくてもよい。主が裁かれたから、私たちは裁かれなくてもよい。これが十字架の意味だ。
(2)従順な小羊。主は虐げられ苦しめられたが、屠り場に引かれゆく小羊、毛を切る者の前に黙す羊のように、口を開かなかった(イザ53:7)。主は、ただ御心に従って十字架にかかられた。それは、私たちをも従順な者にするためだった。私たちをキリストの如く従順な者にする、キリストのようにする、というのが。贖いの目的だ。
「世の罪」とは私の罪だ。主は私の罪―過去の罪も現在の汚れも―をご自身の血で全く除き給う。罪の赦しと聖潔を与える神の小羊だ。
自分は水でバプテスマを授けるが、イエスは聖霊でバプテスマを授け給うお方だとヨハネは言った(マル1:8)。イエスの優位性を示すだけでなく、罪の赦しと聖潔という救いの二重性をも表す。認罪−悔い改め−十字架信仰の手順を踏んで、私たちは赦罪−義認−神との和解−新生の救いをいただいた。水のバプテスマを受けてクリスチャンになった。さらに主は、私たちを内側から造り変えて、全く潔め給う。救われてもまだ神に喜ばれない己に気づき、絶望し、十字架を仰いで、そこに己が共に付けられていると信じ、キリスト内住の信仰をいただく。これが聖霊によるバプテスマだ。
イエスは聖霊によってパブテスマを授ける方だ(33節)。「なんじらの中に汝らの知らぬもの一人たてり」(26節文語)とは、深い御言葉だ。私のために十字架にかかり、復活し給うた主が、自我も共に十字架に付け、内に住み給う。この御方が一人立ち給うなら、何も恐れはない。この御方によって、何事でも可能だ(ピリ4:13)。
まず、除かれるべき罪が分かることだ。自分こそ罪人のかしらと認め、主のもとへ行き、信仰をもって十字架を仰ごう。罪が除かれ、感謝と喜びをもって主に従う者にしていただこう。そして私たちも「見よ…」と主を証しする者にしていただこう。十字架のキリスト、神の小羊以外に私たちの救いと聖潔はない(使徒4:12)。
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