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	<title>礼拝へようこそ</title> 
	<link>http://www.takara-eiko.com/report2/index.html</link> 
	<description>礼拝へようこそ</description> 
	<language>ja-jp</language> 

	<pubDate>Sun, 04 May 2008 11:44:01 +0900</pubDate>
	<item>
		<title>礼拝メッセージ：　「重荷を下ろせるところ」    マタイ１１：２８−３０</title>
		<link>http://www.takara-eiko.com/report/reihai_index.html#1209869041</link> 
		<description>
			<![CDATA[
<div class="EditArea"><p>人の一生は、重荷を負って遠い道を行くようなものです。私たちはどんな重荷を負っているでしょうか。</p><p>&nbsp;</p><p>１．不安という重荷です。私たちは、将来について、仕事について、何となく心配だとよく感じます。いろいろな事で無用の心配をしがちです。なぜ不安になるのでしょうか。安心して任せられる御方を知らないからです。</p><p>&nbsp;</p><p>科学は進歩し、人間の知識は豊富になりましたが、神については何も知りません。ここに不安と恐れ、人生の悩みの原因があります。神を知らなければ、人生は不可解です。神は唯一のお方、天地創造の神です。この唯一まことの神を知り、信じ、神に委ねるとき、平安が与えられます。</p><p>&nbsp;</p><p>イエス様は「休ませてあげます」と言われました。母に抱かれた赤ん坊が母に任せ切っているように、私たちも真の神に任せれば、少々のことでは動じません。足を地に着けた歩みができます。</p><p>&nbsp;</p><p>２．罪という重荷です。罪の問題が解決しなければ、人生は決まりが着きません。こよなく愛し、苦労して育てたわが子が反逆したら、母の悲しみはどれほどでしょうか。神はご自身のかたちに私たちを創造されました。しかし、私たちは罪を犯して神を見失いました。私たちは神を無視した生活を続け、しかも、それが正常だと思っていました。ここに人間の罪の問題があります。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちは神の前には皆罪人です。表面は善人でも、ひと皮むけば、醜いエゴの塊です。「義人はいない、ひとりもいない。」（ﾛーﾏ3:10）、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」（ﾛーﾏ3:23）とあるとおりです。人への憎しみ、妬み、傲慢、自己中心&hellip;。私たちの心はこれらで渦巻いています。</p><p>&nbsp;</p><p>「罪から来る報酬は死です」（ﾛーﾏ6:23）とあります。人間は、罪を犯しましたから、死ななければなりません。この死は、肉体の死だけではなく、魂の死、滅びです。私たちは、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているのです（ﾍﾌﾞﾙ9:27）。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちは救われなければなりません。私たちが願う以上に、神はすべての者の救いを願っておられます（1ﾃﾓﾃ2:5）。そのために御子を世に送られました。キリストは罪なき神の子でしたのに、十字架に付けられました。それは、私たちの身代わりの死でした。</p><p>&nbsp;</p><p>罪のために滅びゆく者、神から捨てられるべき者だった私たちに代わって、キリストが十字架にかかられました。神の裁きを肩代わりされたのです。捨てられるはずのない神の子キリストは、私たちに代わって神からも捨てられてくださいました。私たちが捨てられないためです。</p><p>&nbsp;</p><p>罪なき神の子キリストだけが、罪と滅びに定められた私たちを救うことができます。この十字架のもとに行くなら、私たちのすべての罪は赦されます。罪の重荷から解放されるのです。</p><p>&nbsp;</p><p>キリストは、「すべて」と、私たち全員を招いておられます。2000年前の話、遠い外国の話ではなく、今生きている私たちすべてへの招きです。人生の重荷に苦しむ人、人に話せぬ悩みを持つ人、罪の呵責にあえぐ人、人間関係に疲れた人、自己嫌悪に陥った人を、主は分け隔てなく受け入れてくださいます。</p><p>&nbsp;</p><p>キリストによって罪が赦されたとき、本当の平安が与えられます。もう裁かれません、もう死はこわくありません。いつでも神の前に立てるからです。あなたも、重荷から解放された新しい人生を歩み出しませんか。神のみ言葉は真実です。み言葉の約束を信じ、キリストのもとに重荷を下ろしましょう。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="http://www.takara-eiko.com/douga/20080504reihai.wmv" target="_blank">動画を見たい方はこちらから（証しと特別賛美もあります。）</a></p></div>
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		</description> 
		<category>礼拝へようこそ</category> 
		<pubDate>Sun, 04 May 2008 11:44:01 +0900</pubDate> 
	</item>

	
	<item>
		<title>礼拝メッセージ：　「彼らを生き返らせよ」　エゼキエル37：1-14</title>
		<link>http://www.takara-eiko.com/report/reihai_index.html#1209210587</link> 
		<description>
			<![CDATA[
<div class="EditArea"><p>イスラエルは背信の罪のために、裁きとして異国の地バビロンに捕囚となった。しかし、神の憐れみにより、エレミヤを通して新しい契約が示された（ｴﾚ31:31-33）。主がペルシャ王クロスの心を動かされて、民は70年の後に解放された。</p><p>&nbsp;</p><p>本書も回復のメッセージだ。特に33章以下にリバイバルの預言が語られている。エゼキエルは、捕囚の民を御言葉をもって激励した。彼は本章で枯骨の谷の幻を見せられている。</p><p>&nbsp;</p><p>彼は、聖霊に満たされて、主のもとから出て行って幻を見た（1節）。聖霊の恵みをいただいて、初めて主のもとから遣わされることができる。</p><p>&nbsp;</p><p>彼は、谷に満ちるほどのおびただしい、命のない、枯れた古い骨の幻を見た。これは、捕囚のために魂が渇き、枯れ果てたイスラエルの全家の姿だ（11節）。そして、罪を犯して滅びゆく者になり果てた我らの姿でもある。</p><p>&nbsp;</p><p>主はエゼキエルに、これらの骨が生き返ることが出来るかと問われた（3節）。主の熱い思い、主の呻きだ。主は彼に、骨に預言するよう命じられた（4節）。枯れ骨にメッセージを語れと言われるのだ。いのちの御言葉には枯れ骨を生かす力がある。</p><p>&nbsp;</p><p>エゼキエルは命令どおり、枯れ骨に預言した。彼は信じて従ったのだ。そこに神の業が現わされた。骨と骨がつながり、筋、肉、皮膚が生じ、人間になったのだ。御言葉は、干からびた骨をつながらせ、筋、肉、皮膚を与えて生かす力がある。</p><p>&nbsp;</p><p>けれども、まだ息がなかった（8節）。生きた人間になったが、まだ活発に自由に動けないのだ。再び、息に預言せよと命令が下った（9節）。神の霊にメッセージを語れという驚くべき命令だ。</p><p>&nbsp;</p><p>やはりエゼキエルは従った。彼が息に預言すると、生きた人間に息が入り、立ち上がり、大いなる集団になった。ただの群衆ではなく、神のために命をかけて戦う主の精兵になったのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>この記事から、第一に贖いの二重性を教えられる。骨が人間になるとは、救いの恵みを表す。罪を犯したままの魂は、干からびた骨のようなものだ。しかし御言葉（＝十字架の言葉）によって魂は罪から解放され、救われ、人間になる。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、まだ真の命がない。自分のためには働くことができても、主のために喜んで働けない。そんな自我の塊の魂も、神の息が吹き入れられて、初めて大いなる集団になる。自我が十字架で始末され、キリストが内住し給う恵みをいただいて、生きた精兵になる。</p><p>&nbsp;</p><p>「誰かその生命をかけて我に近づくものあらんや」（ｴﾚ30:21文）と主は言われる。主が我らをそのようになし給う。これは主の約束だ。自分が枯れ骨である、命のない者であると認めて、主の前へ出て行こう。</p><p>&nbsp;</p><p>第二に我らの使命を教えられる。我らは、枯れ骨を見ることができるか。魂への重荷があるか。主は我らに預言せよ、メッセージを伝えよと言われる。</p><p>&nbsp;</p><p>現状はどうであれ、主を信じ、御言葉の真実を信じよう。御言葉には魂を救う力がある（ﾔｺ1:21）。十字架の言葉の力によって、魂は息を吹き返す。教会から一歩出れば、そこが枯骨の谷だ。重荷をもって出て行かせられたい。</p><p>&nbsp;</p><p>神のメッセージに耳を傾けよう。イエスはよく「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。聞く耳を持たない者、聞き流す者にならないで、自分に対するメッセージとして聞くことができる魂になりたい。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="http://www.takara-eiko.com/douga/20080427.wmv" target="_blank">動画を見たい方はこちらから</a></p></div>
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		</description> 
		<category>礼拝へようこそ</category> 
		<pubDate>Sat, 26 Apr 2008 20:49:47 +0900</pubDate> 
	</item>

	
	<item>
		<title>礼拝メッセージ：　「私たちが義と認められるために」　　ローマ4:1−5:1</title>
		<link>http://www.takara-eiko.com/report/reihai_index.html#1208600480</link> 
		<description>
			<![CDATA[
<div class="EditArea"><p>本書は難解と言われるが、恵みに溢れた書だ。1章で異邦人の罪、2章でユダヤ人の罪が指摘され、3章で全人類が定罪されている（3:10,20,23）。</p><p>&nbsp;</p><p>最初の人アダムは、神のかたちに創造されたのに、御言葉に背いて神から断絶された。これは罪に定められた私たちの姿だ。私たちは例外なく滅びゆく者になった。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、神は私たちを見捨てず、キリストの十字架による救いを示された。罪なき神の子が十字架にかかられたのは、私たちの罪のためだった。これによって私たちは、神の恵みにより、価なしに、罪と滅びから救われた（3:24）。</p><p>&nbsp;</p><p>救われたとは、過去の一切の罪が赦されたことだ。4章7,8節は、ダビデの体験から来た言葉だ。彼は恐ろしい罪を犯したが、預言者ナタンに指摘されて、ただちに悔い改め、神から即座の赦しをいただいた。</p><p>&nbsp;</p><p>罪の悔い改めと十字架への信仰によって、私たちにも赦罪が与えられ、さらに一度も罪を犯さなかった者と認められる。これが義認だ（2ｺﾘ5:21）。</p><p>&nbsp;</p><p>信仰義認の良き例がアブラハムだ。（3節,創15:6）。彼は神の全能の力を信じた（17,18節）。この信仰を神は喜び、彼の義と認め給うた。これは彼の無割礼の時だった。つまり、彼の義認は、行いによらず、信仰によったのだ。信仰による義認だ。彼は、このために世界の相続人となるとの約束が与えられた。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちにもこの約束が与えられている（23,24節）。神の国を受け継ぐ約束、天の資産を相続する約束が、信仰によって義とされた者に与えられるのだ。罪を認め、悔い改め、十字架を信じて、罪を赦され、義とされた者に、神の全財産を相続する特権が与えられる。</p><p>&nbsp;</p><p>キリストの死とよみがえりのゆえに、それを信じる信仰によって、私たちに義認の恵みが与えられ（25節）、神との和解が与えられる（5:1）。アダム以来神に敵対していた私たちが、ここで神との和解をいただくのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>義認は救いの土台であり、ここからがスタートだ。これは、生き死にに関わる重大事だから、あいまいにしてはならない。今さらと思わないで、神の前に出て、まず救いの確信をいただきたい。雨戸の最初の一枚がきちっと入っているか点検しよう。</p><p>&nbsp;</p><p>5章3-11節には、クリスチャンの雄々しい歩み、喜びに満たされた生涯が描かれている。患難さえも喜んでいると言う。しかし、現実の自分はどうかと省みるなら、喜びや満足や平安がない状態ではなかろうか。好調なときは良いが、逆風になると、不平や不満や愚痴がこぼれてこないだろうか。何と理想とほど遠いかと思う。</p><p>&nbsp;</p><p>しかし、ここに示されている歩みは、単なる理想ではない。こう歩むはずだという標準であり、こう歩むことができるという約束だ。古き人が十字架で始末され、キリストに内住された者の歩む姿だ。</p><p>&nbsp;</p><p>神はかく成し給う。神の力を信じ、渇いて求めるなら、そうなる。信仰による義人は生きる。すべて信仰による。</p><p>&nbsp;</p><p>再び律法の縄目に縛られてはならない。律法主義に陥ってはならない。キリストの十字架によって、信仰による新しい道が開かれたのだから、恵みを無にしないようにしたい。</p><p>&nbsp;</p><p>自分は義と認められたかどうか、点検しよう。ここがはっきりしなければ、先には進めない。主の前に出よう。主は悔いし砕けし魂を軽しめ給わない。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="http://www.takara-eiko.com/douga/20080420.wmv" target="_blank">動画を見たい方はこちらから</a></p></div>
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		</description> 
		<category>礼拝へようこそ</category> 
		<pubDate>Sat, 19 Apr 2008 19:21:20 +0900</pubDate> 
	</item>

	
	<item>
		<title>礼拝メッセージ：　「目を留めるべきもの」　Uコリント4:16−5:10</title>
		<link>http://www.takara-eiko.com/report/reihai_index.html#1208083009</link> 
		<description>
			<![CDATA[
<div class="EditArea"><p>私たちの回りには、勇気を失ったり、落胆させられたりする要因が多い。パウロもそうだった（11:23-28）。しかし、彼は勇気を失わなかった。それは、内なる人、つまり信仰が日々新しくなるからであり（4:16）、また、重い永遠の栄光が約束されていたからだ（4:17）。</p><p>&nbsp;</p><p>パウロの遭っていた患難は、決して軽くはなく、むしろ耐えがたい苦難だったが、この肉の体が主と同じ栄光の姿に変えられるという、のちに約束されている栄光の重さに比べれば、取るに足りなかったのだ。イエスもこの栄光を望みつつ、十字架の苦難を忍ばれた。</p><p>&nbsp;</p><p>希望に満ちた生涯か、落胆の連続の生涯かは、何に目を留めるかで決まる（18節）。この世の目に見える患難は、いかに激しく、耐え難く見えても必ず終わる。しかし、今は見えない栄光は永続的だ。この永遠の、見えない栄光に目を留め、待ち望む者に、あふれる希望が与えられる。</p><p>私たちの歩む世界は、目に見えない世界だ。見えない神を信じ、見えないキリストを宿し、見えない天の資産を望みつつ歩む、信仰による歩みだ（5:7）。試練や患難に遭うとき、目を見えざるに在し給う御方に目を留め、目を上に向けて歩むのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>パウロは、永遠の栄光を幕屋や建物になぞらえている（5:1）。肉体の命が終わると、朽ちない栄光の体が準備される。それがキリストと同じ栄光の体だ。また彼は、着物にもなぞらえている（2節）。栄光の体を上に着ようと苦悶している。</p><p>&nbsp;</p><p>パウロが、苦難の多い厳しい生涯を送る中で、早く栄光の体をいただきたいと願うのは当然だった。栄光の体を着たら、裸のままではいない（3節）。もはや醜い恥はさらさない。罪は根底から永遠に消し去られ、神の前に聖い者になるのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>パウロの重荷（4節）とは、教会のための重荷、魂のための重荷だった（2ｺﾘ11:28,29）。この重荷を取り去って欲しいとか、死にたいとかいうのではない。生きたままで栄光をいただきたいと願うのだ。生きながらにして栄光の歩みを求めるのだ。これこそ、「キリストわが内にありて生くるなり」（ｶﾞﾗ2:20）の信仰で生き続ける生涯だ。</p><p>&nbsp;</p><p>これほどの栄光が私たちに約束されている。私たちをこの栄光にかなう者にし給うたのは神だ（5節）。十字架の贖いの深さ、血潮の力がどれほどかがわかる。聖霊はこの栄光の希望の保証だ（ｴﾍﾟ1:14）。</p><p>&nbsp;</p><p>この望みのゆえに勇気が与えられる（6節）。現実の歩みには困難が多いが、栄光の望みを思い見て、内住の御霊に励まされる。こういう天的な生涯を歩めるとは、なんという恵みか。</p><p>&nbsp;</p><p>これが信仰によって歩む歩みだ（7節）。栄光から栄光へと変えられる望みを信じて歩む者になりたい。天につける歩みをしたい。そのために、望みの保証となる聖霊を求めよう。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="http://www.takara-eiko.com/douga/20080413.wmv" target="_blank">動画を見たい方はこちらから</a></p></div>
			]]>
		</description> 
		<category>礼拝へようこそ</category> 
		<pubDate>Sun, 13 Apr 2008 19:36:49 +0900</pubDate> 
	</item>

	
	<item>
		<title>礼拝メッセージ：　「一粒の麦として」　　ヨハネ12：20-28</title>
		<link>http://www.takara-eiko.com/report/reihai_index.html#1207393401</link> 
		<description>
			<![CDATA[
<div class="EditArea"><p>イエスは私たちのために十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられました。その十字架の死を目前に控えたころ、ギリシャ人たちがイエスを訪問しました。過越の祭で礼拝するために上京した異邦人の彼らは、イエスを王として謁見を求めたのです。主は、「人の子が栄光を受けるその時が来ました」（23節）と言われました。ユダヤ人たちはイエスを十字架につけ、その結果、救いはまず異邦人から始められることになりました。ギリシャ人らの訪問を受けて、主は十字架の時の接近を痛感されたのです。</p><p>&nbsp;</p><p>そういう中で「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ&hellip;」（24節）と語られました。麦が実を結ぶためには、種の麦が地に落ちなければなりません。落ちただけでは駄目です。死ななければなりません。死ぬとは、麦たることをやめ、芽を出すための供給源に徹することです。そうするなら根を張り、芽を出し、穂を付け、豊かな結実を見ます。</p><p>&nbsp;</p><p>イエスは、ご自分の死をさして一粒の麦と言われたのです。イエスは地に落ちて、十字架の死を遂げられました。「わたしが地上から上げられるなら&hellip;」（32節）とは、ご自分の死に方を自覚しておられた言葉です。イエスの死は、十字架でなければなりませんでした。イエスの十字架の血によらなければ、私たちの救いはあり得なかったのです（ﾍﾌﾞ9:22）。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちは、主の十字架によって、罪と滅びからの救いをいただくことができます。罪を悔い改め、十字架を信じるだけで、誰にでも与えられる恵みです。救われたら、主を愛し主に仕えたいと願います。</p><p>&nbsp;</p><p>イエスは「わたしに仕えるというのなら&hellip;」（26節）と言われました。主を愛し主に仕えるには、主に従わなければなりません。イエスがそうされました。主は神の栄光を捨てて人になられました。ゲッセマネで杯が除かれることを願いつつも、「御心がなるように」と、父の御旨に従われました。神のあり方を捨てられないとは考えず、己れを捨てて御心に屈服し、十字架の死にまで徹底して従われました（ﾋﾟﾘﾋﾟ2:6-8）。</p><p>&nbsp;</p><p>私たちも、神の御心に従順に従って、主に仕えていきたいと願います。これは、自分に死ななければできないことです。一粒の麦とは、イエスだけではなく私たち自身のことです。主は私たちのために十字架に死なれました。同時に、私たちのわがまま、強情な自我をも共に十字架につけてくださいました。汚れた自己の姿に絶望し、そこから十字架を仰ぐなら、キリス卜が内に住んでくださいます。そういう魂になって、初めて真に主に仕えることができます。</p><p>&nbsp;</p><p>イエス様のように神に仕えたいと思います。主がいかに一粒の麦として己に死に、御心に従われたかに倣いたいと願います。高い標準ですが、主の約束です。主がなしてくださいます。恵みにより、信仰によって主に仕える者とならせていただきましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>故・中江美智子姉は、まさにそのような生き方をされました。学生時代にキリストを信じてその救いにあずかられ、宝塚に導かれ、当教会で教会生活を送られるようになりました。その中で、キリストの深い恵みを知って、心の底から新しく創り変えられるという体験をされ、主の忠実なしもべとして、主と教会と魂を愛し抜かれました。主が彼女をそのように導かれたのです。私たちも彼女の信仰を受け継いで、一粒の麦として歩ませていただきましょう。</p><p>&nbsp;</p><p>&nbsp;</p><p><a href="http://www.takara-eiko.com/douga/20080406.wmv" target="_blank">動画を見たい方はこちらから</a>&nbsp;</p></div>
			]]>
		</description> 
		<category>礼拝へようこそ</category> 
		<pubDate>Sat, 05 Apr 2008 20:03:21 +0900</pubDate> 
	</item>

	
	<item>
		<title>礼拝メッセージ：　「みこころに従う喜び」　　詩篇４０：１−１７　　　　　　</title>
		<link>http://www.takara-eiko.com/report/reihai_index.html#1206787283</link> 
		<description>
			<![CDATA[
<div class="EditArea"><p>ダビデがサウルに命を狙われ、逃避行をするという苦しい状況の中で歌った歌だ。「滅びの穴」「泥沼」（2節）は危険な状態を表す。しかし彼は、主は救い出し給うたと歌う。現実はまだ救われていないが、必ず救い出し給うと確信する先取りの信仰だ。</p><p>&nbsp;</p><p>救い出されたから賛美するのではない。信仰のゆえに賛美するのだ。状況は変わらない。依然として危倹であり、欠乏だらけだ。しかし、ダビデには主への信頼ゆえに喜びがあった。</p><p>&nbsp;</p><p>その秘訣は、神のみこころへの服従だ（6-8節）。「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします&hellip;」（8節文語）。これはキリストの姿だ（ﾍﾌﾞ10:5-7）。</p><p>&nbsp;</p><p>「あなたは私の耳を開いてくださいました」（詩40:6）は、「唯わが為に体を備えたまえり」（ﾍﾌﾞ10:5文）となっている。主は神の栄光を捨て、人となり、肉体を備えられて神から遣わされて来られた。神のみこころに従うためだ（ﾍﾌﾞ10:7）。神のみこころとは、全人類の贖いだった。</p><p>&nbsp;</p><p>「汝わが耳をひらきたまえり」（詩40:6文語）は、ある訳では「汝わが耳を穿（うが）ち給えり」だ。七年めの贖いの年、解放されずに主人のもとにいることを願う奴隷は、戸または柱にキリで耳を刺し通された（出21:1-6）。それは主人への徹底的な従順のしるしだった。耳に穴が開けられたら、神に聞き従う耳になるのだ。これもまたキリストの姿だ。キリストは、みこころへの従順な御方としてこの世に来られた（ﾖﾊ5:19、8:29）。主が十字架上にかかられたのは、ただ唯々諾々、父のみこころに従われた結果だった。</p><p>&nbsp;</p><p>主の従順は、我らの贖いのためであり、主の贖いは、我らをも従順な魂とするためのものだった。不従順で頑なで傲慢で強情な我らのために、キリストは十字架にかかられた。我らが自己の真相を見せつけられ、絶望した魂になるなら、十字架の深い意味がわかる。そこにキリストと共につけられたと信仰をもって決算し、虚しくなった魂に、キリストが内住される（ｶﾞﾗ2:20）。みこころにのみ従われたキリストがわが内に住まわれれば、我らもみこころに従順な者になるはずだ。</p><p>&nbsp;</p><p>詩40:8は、キリストのお姿であるだけでなく、我らの姿になる。「あなたのおしえ」とは内住の主だ。これがクリスチャンの標準だ。クリスチャンとはこれ以外でもこれ以下でもない。</p><p>&nbsp;</p><p>従えと言われて従えるものではない。しかし、そこで&ldquo;しょせんそんなもの&rdquo;と諦めるか。いや、それでは主が満足されない。自分も満足できないはずだ。どんな時でも、どんな事にも、ただみこころのままに従うことを、内なる主によって喜ぶ魂となる。高い標準だが、高嶺の花ではない。渇きの問題だ。渇いて求めるかどうかだ。</p><p>&nbsp;</p><p>キリストのごとくなりたい。主のように力ある奇跡を行う者になるとか、力強い証しをすることができる者になるとかいうより、主のように、いつでも、どこでも、みこころに従う者になるのだ。</p><p>&nbsp;</p><p>ダビデの賛美はこの信仰から生まれた。いかなる状況の中でも、内に在すキリストを仰ぎ、御旨が成ることを最大の喜びとしたい。我らは何を喜ぶにまさって、みこころに従うことを喜ぶ者になりたい。</p><p>&nbsp;</p><p><a href="http://www.takara-eiko.com/douga/20080330reihai.wmv" target="_blank">動画を見たい方はこちらから</a></p></div>
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		</description> 
		<category>礼拝へようこそ</category> 
		<pubDate>Sat, 29 Mar 2008 19:41:23 +0900</pubDate> 
	</item>


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